ばあちゃんへの最後の手紙

2011年11月4日に最愛の祖母が人生を全うして享年83歳でこの世を去った。ただただ悲しかったけれど、お坊さんが「死ぬと人は仏様のお弟子になる」と言っていた。それを聞いた時、何か少しだけ安心したのを覚えている。

お通夜を終えた夜、お葬式の時に孫を代表して読む最後の手紙を書いた。今までのことたくさん思い出した。頭の中では何故かこの音楽が流れていた。四十九日まで半ばくらいできっと向こうで頑張っているところだと思う。なのでその時の手紙をここにそっと載せておくことにした。当日は涙で溢れてうまく読めなかったから。

ばあちゃんへ

ばあちゃん、とうとうこの世を離れて行ってしまったんだね。大好きだった人が逝ってしまうということが未だにどういうことなのかわからないでいます。

お父さんとお母さんが仕事で忙しかったので、ばあちゃんには小さい頃からずっと面倒を見てもらっていたね。いつも自転車でどこか一緒に行ったり、バスで出かけたり、ばあちゃんの後を付いて回るのが好きでした。小さい頃すごく内気で隣の家に行くことも怖かった僕にとって、バスとかお店とか色んな所で初めて会う人とも平気で話を弾ませているばあちゃんはすごいなぁと思って見ていました。

少し大きくなって、中学、高校に上がる頃には、邪魔だとか、臭いとか、辛く当たってしまったこともあったなと思います。その時は本当にごめんね。一緒に過ごした時間はあっという間に過ぎ、僕は映画監督になりたいという夢を持ってアメリカに行くことを決めました。出発の朝、二階から降りて来てくれて、「洋ちゃんが行っちゃうんじゃ寂しいなぁ。」と涙を流してくれたことを今でも覚えています。

慣れないアメリカでの生活と勉学に奮闘していると月日はさらに早く過ぎ去り、数年後に一時帰国する頃にはばあちゃんは家にいなかった。老人ホームでの生活が始まっていたね。体も弱くなってきていたし、両親は僕たち子供の為に一生懸命働いてくれて忙しかったし、理屈では仕方がないと理解しながらも、「家に帰りたい」と繰り返すばあちゃんに何もしてやれない自分が悔しくて悔しくて仕方がなかったよ。それから毎回帰国する度にばあちゃんに会いに行くのが楽しみだった。いつも「洋ちゃんが来てくれて嬉しいなぁ。ありがとう。」と満面の笑みを見せてくれたのが忘れられません。その笑顔は本当に優しかった。それでも帰国できるのは一年半、二年に一度程度で、会う度に少しずつ小さくなっていくばあちゃんを見ると胸が痛かったよ。

長くかかったけどやっと今年大学を卒業できて仕事も見つかった矢先、癌が転移してもうあまり長くないかもしれないということをお母さんに聞いてから急いで仕事を片付けて帰ってきたよ。ばあちゃんがいつも「みんなでどっか行きたいなぁ」って言っているのを最後だけでも叶えたかった。それから「パーマ屋に行って髪を黒く染めて、パーマをあてたいな」っていつも言っていたのもやってあげたかった。優しいオルゴールの音に包まれたパーマ屋の午後。「あぁ気持ち良い。さっぱりした。ありがとう。」って、その言葉を聞いているだけですごく嬉しかった。急いで計画した水上への温泉旅行。あんなに楽しみにしていたのに、出発当日にはもう大分弱っちゃって大変だったね。起こしても起こしても寝ちゃうし、笑顔は出ないし、少し疲れちゃったかな。それでも捥ぎたてのリンゴと大好きなマグロをおいしそうに食べてくれたのは嬉しかった。結果的にこれが最後となってしまたけど、ばあちゃんの子供達と孫みんなで行けた旅行を少しでも心に覚えて、そっちに持って行ってくれたらこれ以上のことはないです。

ばあちゃんが生きている間に自分の作る映画を見てもらいに映画館に連れて行きたかった。映画を見ている顔を隣で見ていたかった。残念だけど、その夢は叶えられなかった。毎日毎日一生懸命頑張ったつもりだったんだけどね。ごめんね。

でもまだ諦めてはいないよ。夢までの道のりはまだまだ遠くて時折くじけそうにもなるかもしれないけど、これからも見守っていて下さい。いつか映画を上映できるようになったら一番前の席を用意して待っています。それまでゆっくり休んでいてね。僕が生まれてから今まで26年間、ばあちゃんと過ごせた時間は限られていたけど、出会えて良かった。色々教えてもらった。ばあちゃんとの思い出はかけがえのないものになりました。今まで本当にありがとう。

平成23年11月7日
洋介より